武道なのか、スポーツなのか

武道なのか、スポーツなのか

2024年夏、パリではオリンピック・パラリンピックが開催されている。中でも柔道は、やはり日本人の関心が高いようだ。特に団体戦に関する内容で、ネットはかなり荒れていた。ネット上では、「日本伝統の武道である柔道」、「フランスで人気の高いスポーツのJUDO」と言った文言をいたるところで見た。日本で育つと、なんとなくこの両者のニュアンスはわかる気もする。わかる気もするが、よくよく考えると、武道とスポーツの違いって何なんだろう?

この記事を書くきっかけは、「競技かるたは武道なのかスポーツなのか」という問いだった。しかし、少し調べると、その問いの前に考えなければいけないことがあったのでこの記事でまとめておきたい。

本記事は、草原克豪著「武道文化としての空手道 武術・武士道のスポーツ化を考える」を非常に参考にして作成しました。

日本的であること

おそらく日本人の多くは、どこかで武道とスポーツはちょっと違うものだと考えている。また、おそらくほとんどの人が、武道の具体例をいくつか挙げることができるだろう。柔道、剣道、弓道、などなど。これらに共通するイメージは、日本発祥であること、道場的なところで行われること(神棚があることも)、なんか規律が厳しそうなこと、修行感が強いこと、あたりだろうか。

ただ、例えば規律の厳しさで言ったら、野球部とかは一般に結構厳しいイメージがあるし、そもそも「体育会系」という言葉があるように、スポーツ全般は部活内の上下関係や規律が厳しいイメージがある。練習も朝練があったり、ハードなイメージもあるし、修行感に関しても武道と比べて特に大きな違いがあるとは思えない。1

となると、やはり「日本発祥」とか「道場」とか、要は「日本的であること」というのがカギになってくる気がする。では我々が漠然と感じている「日本的」とは何なんだろうか。これからそれを明らかにしていきたい。

歴史を見ると答えはすぐわかる

武道とスポーツの違いについて、考えている人はもちろん世の中にたくさんいる。ちょっと検索すれば、その答えはすぐに見つかる。結論から言うと

武道とは、スポーツ化した武術である。

お気づきだろうか。ここまで、武道とスポーツの違いを考えようとしてきたのだが、実は前提がそもそもおかしいのだ。なぜなら、武道はスポーツだからである。もしかしたら、ちょっと受け入れがたいかもしれない。言葉遊びをするな!とご立腹かもしれない。気持ちはよくわかります。この先で説明しますので、是非お付き合いください。

「武道」の定義と歴史

まず、「武道」という言葉は、実は20世紀になってから使用されるようになった言葉である。まだ100年ほどの歴史しかない。

武道の定義について、具体的に存在するものには、2014年に制定された日本武道協議会による「武道の定義」がある。

武道とは、武士道の伝統に由来する日本で体系化された武技の修練による心技一如の運動文化で、心・技・体を一体として鍛え、人格を磨き、道徳心を高め、礼節を尊重する態度を養う、人間形成の道であり、柔道、剣道、弓道、相撲、空手道、合気道、少林寺拳法、なぎなた、銃剣道の総称をいう」

おそらく多くの方がなんとなくイメージしていたものにかなり近いだろう。そして、たった9種に指定されていることに少し驚いたかもしれない。(相撲って武道だったんだ!)2

また、同協議会の武道憲章(1987年制定)には

武道は、日本古来の尚武の精神3に由来し、長い歴史と社会の変遷を経て、術から道に発展した伝統文化である。

武道は、武技による心身の鍛錬を通じて人格を磨き、識見を高め、有為の人物を育成することを目的とする。

と規定されている。

武道が武術から生まれたものであることがハッキリと書かれている。

武術がどのようにして武道になったか、という歴史は各競技ごとにいろいろあるようだが、ここでは柔道を取り上げる。

柔道の生みの親である「嘉納治五郎」は、柔術から柔道を生み出すにあたり、近代スポーツの「競技性」を取り入れ、互いの技の優劣を競い合う「乱取」という試合形式を作った。そのころの柔術は、自己鍛錬などが目的で楽しむためのものではなかったし、試合というのもなかった。嘉納はそこに、試合というゲーム性を導入して柔道を広めようとした、のだそうだ。驚かれるかもしれないが、このように武道とは近代スポーツの考え方(競技性)を取り入れることで生まれたのである。4

でもやっぱり武道とスポーツは違う気がする

そもそも、スポーツとは元をたどれば、西洋貴族の遊びである。5なので、スポーツは「やったり、観たりして楽しむもの」だ。ここが、「日本的である」武道と相いれない。なぜなら私たちは、武道は自己鍛錬のためのものであって、つらく苦しいものではあっても、楽しむようなものではない、というイメージをどこかでもっているからだ。もちろん、武道も競技性が加わったことにより、楽しむという部分が完全にないわけではないが、「メインは修行」というイメージは根強い。

また武道は「礼に始まり、礼に終わる」というように礼儀を重んじる。相手に敬意を持っていれば、勝った時にガッツポーズをするなどありえない。6

こういった「修業的な側面」「礼儀的な側面」が「日本的であること」の正体であり、「武道とスポーツを同一視することが受け入れられない」理由ではないだろうか。

ただし、スポーツの方に「修業的な側面」や「礼儀的な側面」がないかと言われれば、そんなことはない。特に、トップアスリートともなれば、修行と言っていいほどストイックな生活をしていることもめずらしくない。武道もスポーツもトップになるには、技術面だけでなく精神面の充実が絶対に必要で、その中には相手へのリスペクトも含まれるだろう。トップ選手はみな、誰かに勝つのではなく、己に勝つことに取り組んでいるのだ。7そういう意味で、我々はもう武道とスポーツを区別する必要性をほとんど感じていない。8

さいごに

「競技かるたは、武道か、スポーツか」を考えるために調べだしたら、両者を区別する必要なんてなくね?という結論に至ってしまった。

先日の高校選手権の団体戦の声かけルールの件でも話題になっていたが、教育や文化として競技かるたについて考える時、このまとめは何を議論すればいいのかを少し明らかにできたのではないかと思う。

つまり、競技かるたにおける「修業的な側面」と「礼儀的な側面」を考えればいいのだ。武道なのか、スポーツなのか、という議論をする必要はない。

「競技かるたを通じて、これらの側面にどうアプローチしたいのか」を考えることが、きっと生産的な議論につながるのではないだろうか。

競技かるたがもつ「修業的な側面」「礼儀的な側面」については、それだけで色々と議論できそうな気がしている。まとまったらそのうちまた記事にします。

最後まで読んでいただきありがとうございました!

  1. この記事を全部読んでくれた方はわかると思うが、これは「日本におけるスポーツの武道化」とでもいえる現象だろう。日本人は、何に対しても修行性を見出すクセがある。 ↩︎
  2. この9種目以外の伝統的な武術は、「古武道」として扱われているらしい。 ↩︎
  3. 尚武(しょうぶ)の精神とは、「武術の鍛錬によって心技体を鍛えることを尊ぶ精神」みたいな意味のようです。 ↩︎
  4. また、嘉納は、段位制度を導入することで、全国共通の指標を作り、近代スポーツに不可欠な標準化にも取り組んでいる。 ↩︎
  5. スポーツはplayするものである。ご存知のようにplayは遊ぶという意味をもつ。 ↩︎
  6. まぁでも、気持ちはわかりますよねぇ。 ↩︎
  7. 野球をやっている大谷さんに、武士道を感じる人も少なくないのではないだろうか。 ↩︎
  8. 野球の日本代表はサムライジャパン、サッカーではサムライブルー。日本の2大人気スポーツでも、トップはやはり「サムライ」なのだ。 ↩︎

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